“Friends We've Never Met” 

戦友には二種類いる、と考えてみる。


一種類は、家庭や学校、労働集団や地域社会などの 

実生活上での直接的な繋がりの中で出会い、 

そこで苦楽を乗り越え、共に生き抜いた同志、だとすると、 

もう一種類は、実生活上で直接出会う人でなくとも、 

もっと言うと、人ではないもの、であったとしても、 

その存在が心の内側から光を照らすことで、 

結果的に、共に生き抜く同志となるもの、と考えてみる。


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 “Friends We've Never Met”は、 

「ジミ・ジェイミソン、ジム・ピートリック歌曲を歌う」

といった趣きの、「まんま“サバイバー”」な(笑) 

アルバム“Crossroads Moment” (2008) 収録曲。 

現実の暮らしの中では直接出会うことはなくとも、

同じ音楽を愛するというそのことに於いて、 

心が繋がっている人々を、その絆を、歌っている。

好事家のツボを突きまくったこのアルバムは、 

多くのメディア・ファンから年間ベストアルバムに選ばれ、 

そして、Burrn!誌の藤木昌生さんも このアルバムを年間ベストに選出されていた。


 サバイバーの音楽を、 バンドのサウンドや「ロッキーの主題歌」ではなく、 

「J.ピートリックのメロディメーカーとしての資質」 という視点で書かれた文章を、 

メディアに載る場所で私が読んだのは、 藤木さんのレビュウが初めてだった。


その作者が、 有名だろうが無名だろうが、 

日本人であろうが外国人であろうが、 

年老いていようが若かろうが、 

男性だろうが女性だろうが、 

「心揺さぶる、ある特別なメロディがある」音楽に

否応無しに反応してしまう私のようなリスナーにとっては、

藤木さんの文章は、正に同志を見る思いだった。 

私の感覚では音楽に於いて最も気になる部分でありがなら、 

多くのメディアでは言語化されないような「ツボ」(本質)を、 

これでもか~とばかりに藤木さんは書かれていて、 

毎月B!誌を読むのが本当に楽しみだった。


ところが、今年(2012年)の5月号のB!誌から、 

突然の人事異動にて藤木さんは同誌の編集を離れてしまった。 

誌面上では、何の前触れもない急な出来事だった。 

・・・通常の社会生活を過ごしている社会人の感覚からするとお笑い種だろうが、

私は、本当に目の前が真っ暗になる思いだった。 

「たかが音楽ごときで。。。実生活上で、もっと大切なことがあるだろう」 と、

言われるかも知れない。

それはそれでもっともだと思う。 

でも、食べ物や住む場所があり、 家庭なり学校・職場に所属していれば、 

人は全て幸せなのだろうか? 

通常の社会生活の中では居場所の無い心のざわめきが、 

音楽の中で、その中でのみ、拾われることがある。 

音楽がそういう存在になっている人にとって、 

それを趣味や娯楽と言い切ってしまえるものだろうか? 

或いは、これは単に「贅沢」なのだろうか・・・? 


1992年から藤木さんのレビュウや解説を読み、

紹介される音楽に一喜一憂しながら 約20年間、

僭越ながら、共に生きてきた思いだった。 

直接ご本人にお会いする機会は無くとも、 

私にとってはかけがえの無い心の同志だった。 

「自分と同じ感性が、この世界のどこかにある」という、 

その事実が、世界と自分を結びつける命綱だった。 


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 ・・・戦友には二種類いる、と考えてみる。 


一方の、家庭や学校・職場などの実際の生活で出会う、 

いや、「出会わざるを得ない」人々の中に、 

もし誰も自分の味方がいなかったとしても、

それは必ずしも、 この世界に居場所が全く無い、という意味にはならないはず。 

もう一方の、心の声が導く場所へ懸命に綱を辿ってゆけば、 

そこで、戦友に出会えるかも知れない。 

それは、実生活上の問題を、現実には何ら解決はしない。 

でも、解決されない問題を抱えながらも生きてゆく日々を、 

心の内側から照らしてゆく光となるはず。 


(2012年8/15記)

(追記:2013年6月号のB!誌から、藤木さんは紙面に復活されてます)
(追記:2021年4月号のB!誌をもって、藤木さんは同誌の編集から離れました・・・
 私のとって、一つの時代が終わりました)

岩橋 信之 nobuyuki iwahashi

音楽好き。 生ギターで自作曲を独奏したり、 その他の楽器で色んな人と演奏したり。

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