<2023年の極私的一曲・一冊・一ラジオ>

 自分メモ。 


外国も国内も、あまりに非道非情な出来事ばかり。

 一方で、私個人の生活は目眩がするくらい恵まれていた一年だった。

だからなのか、今は会っていない人や場所や関わりのことを、強く思い出してもいた。

 そんな年の瀬に印象に残っている、ラジオと本と曲。


 ⚫︎「それは、光の加減でしかない」

 何度も聴き返した、キョンキョンのラジオに川上未映子が出ていた回。 

「人は弱い状態で生まれ、また弱い状態になって死んでゆく。

強いということの価値は、大きなものではない。何かの恵みで、

“今、自分にはチカラがある”と感じたとしても、

それは光の加減でしかない。弱いままで生きていけること、

ハンディキャップがあっても楽しく生きていけることが社会のベースにあるべき」

 …これって、糸賀一雄が福祉の思想で言っていたことと基本的に同じ話。 

その時から何も変わっていない(進んでいない)、という人もいるだろうけど、

このラジオでも言ってる通り、僅かかも知れないが世の中は変わってきた。 

たとえほんの少しだとしても、気づくことから何が変わってゆくことに、

人の命の時間の意味はあるのかも。


 ⚫︎<責任の生成>中動態と当事者研究 (國分功一郎、熊谷晋一郎) 

言葉や思考のプロセスで、能動的・受動的、という分類は自然なこと、

デフォルト的に捉えられているかも、だけど、

例えば「恋に落ちる」は、能動?受動?…明確にどちらか一方とは言えないのでは。

 能動・受動、の区分けがデフォルト的になったのは、欧米等では歴史的には

最近の話(現在でも能動・受動に組み込めない“あわい”を拾う言語体系の国はある)。

 (その区分け以前に使われていたのが、中動態) では、

何故、能動・受動の区分けが支配的になったのか?

 その行為を、「誰がしたか」が明確になれば、責任範囲が明確になる、

つまり、犯人探しがやり易くなる…と考えることが出来るからなのでは?と。 

例えば、とある犯罪で、犯罪“者”を特定した時、その人のみに起因する出来事はどれだけあるのか。

生まれ育ち、生きてきた環境が、その人に多大な影響を与えていた場合、

行為のどこまでをその本人のみに責任が問えるのか。 

…こういう困難さの原因の一つが、能動・受動という区分けから生じる、

意志や責任、という概念(の難しさ)なのでは、と読めた一冊。


 ⚫︎“Borderline”chris de b urgh 

仕事での出来事。 

私たち(団体職員と利用者家族)と、行政担当者との、キツい面談。

助成金を継続できるか否か、の話。

 …ただ、この行政担当者、元は現場の人。志あって、行政側に。

 役人や警察など、嫌われてしまいがちだが、

“誰かがやらないと社会が混乱してしまう仕事”というものがある。

自然な優しさだけでは、壊れてしまうものが世の中には沢山ある。

全ての職責者がそうとは思わないが、清濁合わせ飲んで、承知の上で、

嫌われ者を担う人たちがいる。 この行政担当者は、そういう人だった。

話し合いは結論は出ず、双方の主張は並行線。

その中で、担当者が思わず口にした言葉が忘れられない。 

「私が、そちら側(私たちの側)に座っていたら、(私たちと)同じことを言うと思います」

 立場は異なれど、気持ちは同じ。でも、それぞれの領域を踏み越えることは出来ない。

 …トルストイか誰かが 「そもそも、土地も地球も、特定の個人や民族や国、

つまり“人間の”所有物ではない。それにも関わらず、土地の何処かに線を引いて、

“ここから先はオレのもの”と言い出した時から、不幸が始まった」 

のようなことを言っていたのを思い出す。

 どこかで線を引き、役割や立場をつくることで人の社会は成り立つけれど、

そうすることで不可避に生じる悲劇は大小問わず、無数あるのだろう。

岩橋 信之 nobuyuki iwahashi

音楽好き。 生ギターで自作曲を独奏したり、 その他の楽器で色んな人と演奏したり。

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