<2024年の極私的一冊・一ラジオ>

自分メモ。


普通に?ニュースとか見ていると、地球は地獄にしか見えない、、、

と思うような出来事ばかり・・・年々こう感じることが強まる。


「たとえば、海の水をスプーンで一杯すくい上げたとき、海の水は

“まったく変わらない”とも言えますし、

“確かに一杯分は減ったのだ”とも言えます。それは私たちが、

どちらを“信じるか”の問題です」

(『生きていく絵』荒井裕樹)


社会的な力のある人からみれば、

塵のような微かな行いでも、何もしないのとは違うはず。

あるいは、見ないフリよりは、見ることだけでも意味はあるのでは、と思うときも。

気持ちも考えもまとまらないまま、日付ばかりが過ぎてゆく。


●『生きていく絵』荒井裕樹

“平川病院”という精神科病院の中の<造形教室>に、この本の舞台がある。

そこは、病院の中にありながら「治す」ことを目的としていない。

“芸術療法”、“アートセラピー”といった言葉にはなじまない。

いま流行りの“障害者アート”としての作品作りを目指しているわけでもなさそうだ。

では、何をしているのか?

「自分の心に湧き上がってきた何かを、何らかの手段で表現し、

そのことを通じて、自分の心がいまどのような状態にあるのかを知ること、

それを“自己表現”と呼ぶとして」

「そのような自己表現によって生かされる<生>というものがありうるだろう」

・・・そういった自己表現を行う場所が<造形教室>とのこと。

とは言っても、ここに来たらすべてが解決するようなパワースポットではなく、

医学的な見地から見た病気の治療が為されるわけでもなく、

社会福祉学的な見地から見たQOL(人生の質)が向上するわけでもなく。

それでも、ここに集う人々は分析しがたい「生きやすさ」を

この場所での活動に感じている、とのこと。


「吐き出さざるを得ない何かを形にする(造形)」

という点に、ことの深度は様々だが、思うところが多々あった。


●「悪童トーク~DECIDEの回」

エアロスミスのジョーペリーが

「エレキギターもはや反抗の象徴ではない。良くも悪くも、単なる楽器にすぎない」

ということを言っていたらしい。必ずしも、ネガティブな意味ではなく。

あくまで私の推測だが、例えば、ベートーヴェンとかシューベルトとかの音楽の幾つかは、

元は単なる音楽だけではなく、作者個人の切実な自己表現だったのでは?と思うことがある。

しかし、音楽そのものの絶大な価値があり、作品として残ったことで、

作者個人の表現を超えたところで音楽が響き続けているのかと。

表現が一旦世に出て、人口に膾炙してゆくことで、普遍性・大衆性を備えると、

個人にへばりついていた何かは形を変えてゆくのかもしれない。

エレキギターは、いつしかポピュラー音楽の音色のパレットの一色となった。

そして、エレキギターに潜んでいた叫びは、その転身先の一つに、

エクストリームな音楽での声の表現を選んだのかも知れない。


自己表現は、比較をするものではないが、表現されたもの(造形)として

形となった後は、「造られたものの一つ」となってしまう。

しかし、当人にとっては、数あるものの一つ、ではなく、かけがえのないもの。

そのような、自己表現のもつ代替不可能性は、時として、

ポピュラリティとは相性が微妙なように感じることもある。

岩橋 信之 nobuyuki iwahashi

音楽好き。 生ギターで自作曲を独奏したり、 その他の楽器で色んな人と演奏したり。

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