自分メモ。
普通に?ニュースとか見ていると、地球は地獄にしか見えない、、、
と思うような出来事ばかり・・・年々こう感じることが強まる。
「たとえば、海の水をスプーンで一杯すくい上げたとき、海の水は
“まったく変わらない”とも言えますし、
“確かに一杯分は減ったのだ”とも言えます。それは私たちが、
どちらを“信じるか”の問題です」
(『生きていく絵』荒井裕樹)
社会的な力のある人からみれば、
塵のような微かな行いでも、何もしないのとは違うはず。
あるいは、見ないフリよりは、見ることだけでも意味はあるのでは、と思うときも。
気持ちも考えもまとまらないまま、日付ばかりが過ぎてゆく。
●『生きていく絵』荒井裕樹
“平川病院”という精神科病院の中の<造形教室>に、この本の舞台がある。
そこは、病院の中にありながら「治す」ことを目的としていない。
“芸術療法”、“アートセラピー”といった言葉にはなじまない。
いま流行りの“障害者アート”としての作品作りを目指しているわけでもなさそうだ。
では、何をしているのか?
「自分の心に湧き上がってきた何かを、何らかの手段で表現し、
そのことを通じて、自分の心がいまどのような状態にあるのかを知ること、
それを“自己表現”と呼ぶとして」
「そのような自己表現によって生かされる<生>というものがありうるだろう」
・・・そういった自己表現を行う場所が<造形教室>とのこと。
とは言っても、ここに来たらすべてが解決するようなパワースポットではなく、
医学的な見地から見た病気の治療が為されるわけでもなく、
社会福祉学的な見地から見たQOL(人生の質)が向上するわけでもなく。
それでも、ここに集う人々は分析しがたい「生きやすさ」を
この場所での活動に感じている、とのこと。
「吐き出さざるを得ない何かを形にする(造形)」
という点に、ことの深度は様々だが、思うところが多々あった。
●「悪童トーク~DECIDEの回」
エアロスミスのジョーペリーが
「エレキギターもはや反抗の象徴ではない。良くも悪くも、単なる楽器にすぎない」
ということを言っていたらしい。必ずしも、ネガティブな意味ではなく。
あくまで私の推測だが、例えば、ベートーヴェンとかシューベルトとかの音楽の幾つかは、
元は単なる音楽だけではなく、作者個人の切実な自己表現だったのでは?と思うことがある。
しかし、音楽そのものの絶大な価値があり、作品として残ったことで、
作者個人の表現を超えたところで音楽が響き続けているのかと。
表現が一旦世に出て、人口に膾炙してゆくことで、普遍性・大衆性を備えると、
個人にへばりついていた何かは形を変えてゆくのかもしれない。
エレキギターは、いつしかポピュラー音楽の音色のパレットの一色となった。
そして、エレキギターに潜んでいた叫びは、その転身先の一つに、
エクストリームな音楽での声の表現を選んだのかも知れない。
自己表現は、比較をするものではないが、表現されたもの(造形)として
形となった後は、「造られたものの一つ」となってしまう。
しかし、当人にとっては、数あるものの一つ、ではなく、かけがえのないもの。
そのような、自己表現のもつ代替不可能性は、時として、
ポピュラリティとは相性が微妙なように感じることもある。
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